当社の創業は1674年(延宝2年)三木家の祖・第2世高治が藍の取扱いを開始したことに始まります。
数百年前、播州・三木城(現在の兵庫県三木市)の城主・別所長治が秀吉との戦いに破れた際、長治の叔父・治之の遺児である規治が家来とともに阿波・松茂中喜来浦に逃れて隠れ住んだのが三木家第1世與吉郎でありました。
当時、この辺の地は徳島県を流れる二大河川の一つである吉野川の川辺に位置し、船着場となっていたので三木家は漁具、米穀、雑品などの商いを開始。その後、阿波藍が盛んになるに従い新たに阿波藍の取扱いも始めました。このようにして今日の三木産業は創業されたのです。

藍玉俵
第7世延歳の頃、阿波藍は全国的に隆盛となり、三木家は藍を専業とするようになりました。そして江戸に支店を設けて関東地方における販路の開拓に乗り出しました。
一方、播州姫路および淡路の須本(現在の兵庫県洲本市)にも支店を開設しました。1817年、第8世政治が後を継ぎ、ますます家業を盛んにし、武州・相州・下総・常州・野州など関東一円に販路を拡大しました。そのため、姫路・須本の両支店を閉じ、総て江戸に全力を投入することになりました。
かくして藍屋與吉郎の名は全国に高まり、また三木家にとっても第8世は、名実ともに今日の基礎を築いたのであります。

第8世 與吉郎政治
藍の播種 |
藍粉成し |
藍搗き |
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江戸の本材木町にあった江戸店にはその運営と販売戦術を家法化した「江戸店式法」がありました。この式法は1800年(寛政12年)10月に制定されたものが主文で、その後「付録」と「定」が追加されて3部・42の条文からなっていました。これは、主人の目の届かない遠隔の地にある店においても経営が間違いなく運営されていくよう定められた規則で、本店でもこの式法が遵守されたといわれています。同時に、今日の監査役に該当する「輪番」という制度が設けられ、経営の行き過ぎや誤り、あるいは不正なども厳しくチェックされました。
三木家の当主が、代々このような規律や規則を大切にしたことは、当主自らの手で補筆・訂正した跡が記録に残されていることからも窺い知ることができます。1976年(昭和51年)6月、大幅に改正した現行の社則にも昔からの経営精神が数多く盛り込まれています。